nuruinemuri

タイトルに偽りアリ

今もきっと待ち合わせの途中

物心ついたころからあたしはおばあちゃん子だった。両親は共働きであったため、保育園・幼稚園の送り迎えは母方の祖母。小中学生になってもまず帰宅する場所は隣の祖父母の家。今思えば、中学くらいまでは両親よりも祖父母と過ごす時間のほうが多かった。

祖母は、7人姉弟の長子。村長・地主の家に生まれ、戦争も経験したが、おそらく不自由なく育てられたため、淑やかではあったがわがままな少女の部分もある可愛い人だった。動物によく懐かれると言っていたし、実際番犬として育てられた柴犬が、祖母には甘えていた。料理上手、裁縫上手で、小学校で何かと必要な袋類(手提げ袋や連絡帳袋、上履き袋)は全部祖母が縫ってくれていた。祖母の作るおでん、肉じゃが、コロッケ、大学芋が大好きだった。芋多いな。

 

母から連絡を受け、慌てて職場から駅へ。plentyの「待ち合わせの途中」を聴きながら新快速に飛び乗った。上着が必要ないくらい、天気の良い日だった。タクシーを拾い、実家隣の祖父母宅へ。祖母の17歳下の妹が来ていた。「私の見合いのときも出産のときも付き添ってくれたのは姉ちゃんやってん。助産師さんに『若いお母さんですね』と言われたら、姉ちゃん『そうでしょう?』って嘘ついてたわ。でも私にとっては、ほんまに親みたいな人や」と話してくれた。あたしはこういうときどんな話をしていいのかわからなかったけど、大叔母さんは「藍ちゃんの爪綺麗やねえ」と言いながらそっと指を撫でてくれた。

鹿児島に住む姉は、赤ちゃんを夫に預け、神戸空港着の飛行機に乗るところだった。21時半着だった。隣の市に住む妹も駆けつけ、祖父、母、伯父、大叔母、妹、私の6人で祖母のベッドのそばにいた。息が荒くて、苦しそう。下顎呼吸というのだと、看護師の妹が教えてくれた。これは終末期の呼吸だから、明日には逝ってしまうだろうね、と。

18時ごろに普段から来てくれている訪問看護師さんが来てくれ「ずっと付きっきりなのも皆さんがしんどいから、交代で見てあげたらいいと思います」と言われ、妹は車を取りに帰り、大叔母も一度帰宅してまた来るね、と家を出て、あたしは犬を連れてくる、と実家へ戻ったとき。祖父、伯父、母、祖母の家族4人だけになったとき。祖母は呼吸をやめた。

祖母が亡くなった。老衰だった。

 

ずっと介護をしていた母は、息を引き取る直前から「手は冷たなってきてるから、ちょっとでもぬくいとこ探して触ってるねん」とにこにこしながら祖母のお腹や首に触れていた。母が泣いているところは、ほとんど見たことがない。呼吸が止まったあとも「お腹はまだあったかいで!触っとき!」と微笑んでいた。

ふたたび訪問看護師さんが来て、お顔を拭かせてくれた。あたし、妹、母、祖父の順番で拭いた。祖父は拭きながら「いろいろあったけど水に流せよ」と呟いた。きっと二人にしかわからないことがあったんだ。みんなで爆笑した。

パジャマだったので看護師さんが「好きだったお洋服を着せてあげましょう」と言ってくれた。母はたんすをごそごそしながら「藍、どれがいいと思う?」と訊くので「おばあちゃん灰色とかやったらババ臭いってテンション下がってたから明るい色にしよ」と、よく着ていた滅紫色の洋服を選んだ。

友引と葬式が被る兼ね合いで、通夜は翌々日になり、亡くなった翌日も祖母はまだいてくれた。枕元に仏具が添えられていたけど、いつも通り眠っているみたいだった。こっそり抱きついた。髪をたくさん撫でた。91歳なのに白髪がほとんどない、艶やかで豊かな黒い髪。うちの犬を連れてきた。祖母宅に来るとうろうろすることはあっても大人しい犬が、祖母のベッドに乗ろうと珍しくジャンプした。どこか一点を見つめていた。まだ確かにここにおばあちゃんがいるのだと思った。

 

喪服なんて持っていなかったので、妹の運転で姉と3人で出かけた。思えば3人きりで車で出かけるのは初めてだった。昔は喧嘩ばかりだったけど、くだらない雑談をして笑って、懐かしかったし嬉しかった。

通夜前に、身内の儀式みたいなものに参加した。式場の方が祖母を清めてくれる。希望したら髪をもらえるとのことだったので、少し切って、もらった。通夜中は、お坊さんの袈裟って綺麗だな、木魚って裏拍子なんだな、くらいにしか思わなかった。妹はずっと泣いていた。棺桶に入っている祖母に「おばあちゃんおやすみ、また明日ね!」と言って、また髪を撫でて、実家に帰った。

 

葬式当日はまた三姉妹で向かった。祖母が好きだったたこ焼きを買った。葬式中の記憶はほとんどない。通夜同様に木魚いいな、お経かっこいいな、くらいにしか考えていなかった。でも、お花や思い出の品を棺桶に入れるとき、祖母が好きだったたこ焼きを入れようとするとき、司会の方が「このあと火葬場でもお会いできますがあまり時間はないので、ゆっくりお顔を見られるのは今が最後です」と言って、やっと実感が湧いた。おばあちゃん、もう死んじゃったんだ。亡くなってもからだがあれば、触れられれば、寂しくなかった。実体がなくなるということがどういうことかわかった。子供みたいに泣きじゃくった。おばあちゃん、おばあちゃん、と呼びかけてみたけど当然返事はない。

半年前、まだ会話ができたころ。「帽子が欲しいわあ」とあたしににこにこ呟いていたおばあちゃん。帽子を買ってあげればよかったのに。もっとたくさん会いに行けたのに。亡くなる1週間前には、どうせ返事してくれないからと、会話をすることもやめてしまっていた。「帰ったよ、藍だよ」と言ってもわかってくれなかったのが、悲しくてこわくて、姿を確認しては逃げるように去った。おばあちゃんが、おばあちゃんじゃなくなっていく姿を見ていられなかった。今思えば、居てくれるだけでよかったのに。あたたかい手を握るだけでよかったのに。おばあちゃんにとってあたしが誰なのかなんてどうだってよかった、おばあちゃんはあたしにとっておばあちゃんでしかない、何も変わらなかったのに。あたし、おばあちゃんにもらってばかりだった。今まで、おばあちゃんに何かを与えてられたことはあっただろうか。

 

火葬とお寺の諸々を終えて、車窓から眺める景色にすら祖母との思い出だらけで、景色が「受け入れろよ」とも「ずっと忘れないでいいよ」とも言っているみたいだった。ボロボロの顔で帰宅し、喪服のまま犬を抱く。彼女はあたたかく、確かに生きていた。君も一緒に見送りたかったよな。ごめんな。

 

 

この記事をやっと書き終えた今は、2023年4月30日。祖母との別れから17日が経った。昨日、夢に祖母が出てきた。目が覚めてから今日までの二日間、涙が止まらなくて、今も同様でひたすらに悲しい。悲しいから、文章に起こしては泣き、上手く呼吸ができなくなり、落ち着いて再開したらまた泣き、袋に溜めた息を吸って、を繰り返して丸一日かかった。

大切な人を失うことは「人生最大のストレス」とされるらしい。母や、祖父はもっと悲しんでいるはずだ。もっとたくさん会いに行こうと思う。みんな死なないでほしい。家族も友達も恋人も、死なないでほしい。「僕より先に死なないでほしい」って歌ってるバンドのことをもう馬鹿にできない。わかるよ。

それでも暮らしは続くもんな

f:id:seijunchann:20230430215440j:image2022年9月17日

f:id:seijunchann:20230430215436j:image2022年8月19日

f:id:seijunchann:20230430222536j:image2022年8月19日

f:id:seijunchann:20230430222544j:image2022年5月5日

f:id:seijunchann:20230430224056j:image2020年8月15日

 

今日の一曲

それでも町は廻っている / オータムス